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神積寺の開山、慶芳上人が自ら彫り安置する。像高88.5cm、温雅な作風の像。藤原時代の代表的尊容が認められ、明治34年8月4日付にて国の重要文化財に指定される。勅封の秘仏として、60年毎に勅使により秘鍵が開かれた。
仏像の特徴としては、着衣を通肩にまとっている。右手は施無畏(せむい)印、左手には薬壺を持つ。目の荒い材(ヒノキか)を耳の前を通る線で前後に寄せる寄木造りで、像内は大きく内刳りされており、材はかなり薄くなっている。膝部の衣文は紐状に表され、翻波式衣文(大きい波と小さく鋭い波を交互に表す衣文)もみられる。全体に漆箔(漆の上に金箔を貼る技法)が施されていたと思われるが、ほとんど剥落している。
本尊薬師如来の脇仏として祀られ、高さが51.3cmあり、腹前で法界定印を結んでいる。ヒノキ材で造られ、目は玉眼、肉身部は粉溜という技法が用いられており、南北朝時代の所産と考えられている。本躰とその台座や光背さらに飾りに至るまで当初のまま残っている。
明治以前は、文殊堂といわれた岩尾神社に文殊菩薩が祀られていたと考えられ、この仏像がそうではないかと言われている。美術工芸品としてもすばらしい仏像であるが、地域の歴史を知る上でも欠くことのできないものである。
安喜門院の百箇日供養の塔婆。安喜門院は後堀河天皇の皇后で弘安9年(1286)2月に崩御された。その百箇日に当たる5月15日に造立されたものである。板碑というのは、頭部を山形に切り、その下の側面に2段の切込みを入れた板状の碑である。身部と呼ばれる平面に、仏像容や種子と銘文が刻まれている。種子というのは仏菩薩を表す梵字のことで、一種の符号のようなものである。
高さ153cm、幅82cm、厚さ中央で18cm、周辺部で21cm、凝灰岩製の石碑で、上部をゆるい傾斜の圭頭形につくり、両肩に二条ずつの切り込みがある。正面中央に肉太の刷毛書による阿弥陀の種子(キリーク)を薬研彫りで刻んでいる。下方に四字詰十二行の銘文を記している。
宝塔というのは、仏塔の一種で、構造的には一重の塔で基礎・塔身・笠・相輪からなり、笠の平面は四角、塔身が円筒形のものである。
悟真院の宝塔は、一石で彫成された基礎と塔身のみの残欠で、笠を失っている。塔身の正面には、蓮華座上に、像高21cmの仏像が刻まれている。一方、背面には、塔身から基礎にかけて、長方形の孔があり、奉籠孔という供養品を入れていた孔ではないかと考えられている。
基礎の正面に罫線を8行ほどこし、銘文が刻まれていて、造立の意図がわかる。「尺迦仏滅後二千二百年」と、釈迦入滅後の年数が刻まれており、仏滅紀年塔といわれるめずらしいものである。全国でも十数例しかなく、その中でも最古の紀年銘(暦仁2年・1239)をもっている。
この紀年銘は、現在のところ石造遺品として、県下で2番目に古いものである。
悟真院の建物内にあります。
妙徳山神積寺の院の一つの悟真院にある門。総高4.5mで本瓦葺きの唐門。規模は余り大きくはないが、落ち着きがあり、唐門らしい剛健な風を見せている。江戸時代中期の元文8年(1741)に建立されたことがわかっている。
石造の塔で層塔と呼ばれるものの一つで、基礎・塔身の上に笠を若干積み重ね、上に相輪を立てた形式の塔である。北野区の東端、神積寺西方の丘上に東面して建ち、慶芳上人の御廟所である。総高241cm、凝灰岩製で軸部の3面には薬研彫りで種子が刻まれている。1面は素面(北面)で、東面はバイ=薬師如来、南面バン=大日如来、西面キリーク=阿弥陀如来である。無紀年だが鎌倉時代中期のものと考えられている。
この古墳は円墳で、直径約35m、高さ6m以上をはかり、2段築成と考えられている。
主体部は横穴式石室をもち死者を葬る部屋の玄室とそれにつながる通路である羨道からなる。入り口は南をむき、今では入り口の天井石がくずれ中がみえる状態になっている。中には大量の土砂が入り込んでいるが、全長約12.4m、玄室長6m、高さ約3.2m羨道部長約6.4m高さ約2.4mをはかる。
古墳の築造は6世紀末ごろと考えられている。
今は、雑木林の中にある古墳だが、横穴式石室の大きさを市川流域のものでみると、最大級を誇る。
古いタイプの石灯籠で、竿は円柱で中ほどに節があり、笠・火袋・中台と基礎の平面は四角という形である。この石灯籠の竿の部分には銘文が刻まれ、それによって寄進された年代とその理由がわかる。銘文は左右同じ「奉寄進薬師如来 御宝前為二親菩提也」「天和三癸亥 三月十七日」「神東郡北山田村施主助左衛門」とある。それによると、北山田村(現姫路市)の助左衛門が両親の菩提を弔うために、天和3年(1683)に寄進したことがわかる。
この石灯籠の南には元は石段があった。石段は35段で元禄2年(1689)に同じく北山田村の助左衛門が寄進した。その後、文久2年(1862)に助左衛門の子孫の助五郎が先祖の意思を継いで、本堂南東にある木を伐採し道をつけて参道をつくった。現在は元の位置に石段が復元されている。
弁天堂の中にあった棟札から天保7年(1836)12月に再建され、その際は文殊院が中心となり、悟真院、本寿院、今福院、無量寿院と共に再建していることがうかがえ、吉田村、田尻村の大工によって建てられたことがわかっている。
弁天堂の中には、弁財天坐像とそれを取り巻く十五童子像が祀られている。弁財天坐像は像高48cmの寄木造りで、像の全体にベンガラ漆色の塗料を施し、金泥で文様を描いている。腕が8本あり、それぞれに剣や宝珠などを持っている。
作風から江戸時代のものと考えられている。
京都愛宕念仏寺の仏師故西村公朝師によって作成されました。ふれ愛観音は、テレビ局から目の不自由な女性が国宝の仏像に触れる場面を撮りたいのだが、どこの寺も許可してくれないと公朝さんに相談がありました。公朝さんの紹介で唯一、京都市右京区御室の仁和寺からOKを得たそうです。撮影に立ち会った公朝さんは、触れられる仏像の制作を思い立ち、1991年に1年がかりで完成させられました。原型像から鋳造され、現在は北海道から九州までおよそ60カ所で祀られています。
この里山林「文殊御山の森」〈妙徳山〉は、「ふくさき三獅子山ふれあいの森」のひとつで、市街地近くにありながら、四季折々に静かな里山散策が楽しめます。
とくに、尾根筋は、春にはツツジの花ざかりとなります。また、山頂につづく三十三所観音巡りの道は歴史を秘めた信仰の道です。
西方には「民俗の森」(徒歩約15分)、南東には「宮山の森」(徒歩約8分)があります。